私が細胞診を習ったのは、1975年。まだ日本の細胞検査士が500人足らずだった頃の大阪です。自分自身が検査技師養成校入学前に結核に罹患した経験があったせいか、特に呼吸器検体に興味がありました。
大阪から郷里の岡山県北の町に帰ったとき、図らずも呼吸器専門病院で働くことになりました。当時は肺癌といえばほとんど死を意味し、結核といえば治る病気だったのです。私の妹も同じ病院で検査技師として働いており、細菌検査を担当していました。当時の検査課の課長が『あんたら姉妹のどっちが見つけるかで患者さんの運命が決まるようなもんじゃ』と言っていたのを思い出します。つまり、細胞診担当の私が病気を見つけると死ぬ病気、細菌検査担当の妹が病気を見つけると助かる病気ということです。
あの頃は本当に次から次に進行癌ばかりで、見つけることだけが仕事の身とすれば無力感が募ることがよくありました。ところが不思議なことに、この地方の人たちの中には自分でどこが癌になったか自己診断して受診し大抵それは当たっており、しかも結果に動じずというタイプが多かったのです。癌の告知をどうするかテレビで話題になり始めている頃、医療者の心配より先に覚悟の決まったすごい人たちがたくさんいたのです。
婦人科では、上皮内癌がどんどん見つかっているのに呼吸器は何ともならないのか?
そうこうするうちに、胃癌に関する興味深い論文を読みました。
臨床科学 the journal of clinical science vol.17 no.3 1981 の特集:胃癌の発生と進展です。特に、中村恭一先生らの『胃癌の組織発生とそれから導かれる胃癌の発生時間』は興味深く感じました。私はこの論文の次のような記載に目を留めました。『胃底腺粘膜から発生した未分化型癌は、時間の経過とともに粘膜内で発育し、その直径が2cm以下で原発巣の潰瘍化に先行して癌が粘膜下組織に浸潤する。癌発生からの経過時間に言い換えると、発生から3年以内に癌細胞は粘膜下組織に浸潤し、リンパの海ともいうべき粘膜下組織をびまん性に広がっていく。(潜在的 linitis plastica 臨床的には粘膜ひだ集中のない直径2cm以下の?c型早期癌として発見される場合が多い。)(中略)癌細胞浸潤に伴う線維性組織の収縮が加わってくる状態は、癌発生から約6〜8年経過している(典型的 linitis plastica)。とすれば、高分化型腺癌だとさらに長い時間がかかるのでは?
そこで、お酒の席で大阪府立成人病センターの松田実先生(現阪大微生物病研究会顧問)に『胃の未分化癌でも臨床癌になるまでに3年もかかるなら肺の扁平上皮癌だって3年や5年かかってるんですよネ?』と言ったところ『10年はかかってるよ』と先生から事もなげな返事が返ってきたのでした。
「だったら肺の上皮内癌を見つけられないことがあろうか!!」と、私は俄然、呼吸器細胞診をやる気が出たのです。しかし、その頃はまだ肺癌に関しては婦人科細胞診のような明確な上皮内癌の分類基準がなかったのです。
そこで、喀痰細胞診受診者カードを作り10回分が一枚に書けるようにしました。(1年に一回の受診で10年分のつもりでした。この地域の受診者は住居移動も病院移動もなく、コツコツまじめに受診される方が多いのです。)ねらいは、肺癌が見つかった時点で、過去の標本を全て見直そうと言うことでした。カードがあれば過去の標本がすぐ出せますから。カードによる管理は河本病院では昔から結核検診に使われており、別段目新しいアイデアではなかったのです。(20年も前のコンピュータはコスト、メモリー、ソフトウエアーも、今とは比べものにならず導入は問題外でした。その点、今は便利ですね!)
実際にこの検討をはじめる前に参考にした本は『早期肺癌カラーアトラス』でした。 とにかくこれしかないと思いました。確かに分類法は少し変わっていましたが、細胞の見方において納得できるものがありました。それから、リンパ節に転移した扁平上皮癌の細胞を実際に観察して参考にしました。これが喀痰に出てきたら果たして癌細胞といえるだろうかと思えるような異型の少ない細胞や、小型の細胞です。もちろんdr.サコマノの話は知っていましたが、実際に彼の文献を集めて読んではいませんでした。
検診を始めてみると当初の計画と違い、異型細胞を発見してからの追跡パターンになってしまいました。肺癌検診のエピソードを少し述べてみます。
喫煙指数(smoking index: s.i.):ある受診者のs.i.が、3年前は1200、2年前は600、今年0で検診対象者からはずれたので受診希望者ということで検体を出してくることに・・・。 どうしてこんな事になるのでしょう.多分、問診時に保健婦さんの手元に前年度のデータが無く、単純に一日の喫煙本数と喫煙年数を聞いて計算したのでしょう。現在禁煙中でs.i.は0ということになってしまう訳です。又、中には対象者になりたくなくてウソの申告をする人もあります(この様な人はたとえ精密検査が必要と言われても受診されません)。他に、タバコの本数、喫煙年数をいちいち覚えてないので、問診の度に“適当”にいい加減な申告をする人とか...。正確にs.i.を求めることは簡単ではありません。
精密検査:精密検査とは喀痰細胞診でDやEになった人が医療機関で気管支内視鏡を含める検査をすることなのに、検診当初はある施設に行くと胸部のレントゲン写真一枚撮って、『異常無し』となってしまうとか、『自分は唾を出したのだから精密検査になるはずがない』と受診機関に申告した人もいました。
私は検診を始めた頃、気管支内視鏡で見れば上皮内癌だって簡単に見つかるものと考えていました。しかしこの検査はかなり苦しそうです(私は立ち会うだけで、受けたことはありません)。さらに気管支は、あんなにたくさん分岐していて5mm以下の上皮内癌の場所を特定することは隆起型でもない限り至難の業です。ちなみに当院では2mmの上皮内癌を数例、全支擦過のような手当たり次第みたいなやり方ではなく、内視鏡的に発見しています。しかし、それは数人の決まった医師による気管支内視鏡検査時に集中している傾向があります。難しいところです。
1回の検査で発見できてしかも手遅れでない、出来れば内視鏡で治療が出来る内に..これが精密検査の理想ですね。
喀痰細胞診による追跡:この追跡によって、私たちは検診受診者の名前を覚えてしまい、気管支鏡検査のとき初めて患者さんに会い、受診者は私たちのことを知らないわけですが、ああこの人だったのかと妙な感慨を覚えたりもします。情が移るのかも?
追跡でわかったこと、つまりは受診者の方々が検体をとうして私たちに教えて下さったことは、「癌発見に先立つ数年前から追跡に値する細胞(写真参照)がすでに出現していること」でした。これらの細胞は、小型であるが、類円形、厚い細胞質を持ち、クロマチンは濃くなくても立体的な核形の不整がみられます。出現数は少なく、ほとんどの細胞が細胞径20μ以下です。経年的に追跡するうち20μ以上の核異型細胞や、有尾などの奇形細胞が混じるようになり、時に60μ以上の細胞もみられることがありました。
この時点が喀痰細胞診での上皮内癌発見の限界ではないかと、私は考えています。
具体的な細胞像やデータを知りたい方は、私たち(河本病院)の報告した文献を御覧になるか、直接当方に請求してください。
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